”囲い”

2006.11.20
受賞作『ぼくのわがまま電池』が出版された1997年は、リアリズム全盛や今日に続くYA文学があちこちで芽吹いていた頃で、いわゆる「エンタメ」と呼ばれる児童書の出版数は少なかったと記憶しています。
1997年が特別そうであったわけではなく、「波」のひとつだと思われます。過去は詳しくは知らないので語れません。
その流れのなか、私は、ある児童文学会のセミナーに参加したのです。
あこがれの先輩作家がいらっしゃいます。ご高名な評論家さまがいらっしゃいます。
さて、その先輩作家さま、評論家さまに、私という新人(当時)をどのように紹介してくださったと思いますか。

「マンガみたいな表紙の本(を書くひと)ですよ」と、評論家さまに耳打ちなさったのです。本人の目の前で。

その時に私は「ああ」と一瞬にして当時の業界の”囲い”の狭さを把握したのです。
何が「ああ」なのかは今更ここに書く気持ちはありませんが、自らを「児童文学作家」と名乗るのには充分気をつけるようになりました。
呼ばれることがあったら「仲間にしてくださるのね♪ 」とうれしく思い、でも、「書き手」とか「物書き」などの言葉を選んで使ってきたと思います。

悲観しているわけではなく、非難したいわけでもないので、この文章をちゃんと読んでくださいね。

要するに私がそこで「ああ」と思ったことは、10年近く書いてきた今も感じているのです。
「マンガみたいな表紙」でその本の価値すべてを決めてしまうひとは確かに存在するのです。一握りの方かもしれませんし、根深いものかもしれません。
その耳打ちは、児童文学にはふさわしくない、という意味だったと思いますが、マンガそのものを蔑視する言葉だとしたら差別していることに気がついていないのです。心を込めて描いてくださった画家さんにも大変失礼ですよね。
でも、自分におきかえて考えてみるといかがでしょうか。
「人間顔ではない」と言いながら、恋人はイケメンがいいとか美女がいいとか、本は顔(表紙や装丁)で選んだりはしていませんか。
またそういうキャラクターを採用したりはしませんか。
そうでもないよ、というひとでも、好みや傾向はあると思います。私もしかりです。
コンプレックスを逆手にくすぐって「ウリ」にすることもあるでしょう。
その価値観(美的感覚とも)は、子供と大人でも大きく違ったり、子供どうし、大人どうしでも違ったり、つまり、ひとそれぞれなわけで
!それだからこそ!
需要の幅があるのではないでしょうか。生きる道が見つかるのではないでしょうか。

私が言いたいのは、価値観のまるっきり違うひとに自分をぶつけようとしても、労力の無駄だ――これだけ。
自分の価値観だってたやすく変えられないのに、ひとの価値観だけは変えたいなんて、無理な話でしょう!? 思い違いでしょうか。
価値観の違うひとの評価に捉われている時間がもったいないのです。
その時間があれば、書き手なら、需要に向けて新たな作品を作ってほしい〜! ということです。
需要だって前出の波に左右されて変動しているものです。その影響を受けたくなければ芸術家として志を高く生きる道を選んだほうが幸せです。

もう何度もこのような発言はしてきたのですが、都度、勘違いされたり、「なんじゃそれ」な方向違いの解釈や誤解が耳に入るのであえて主張させていただきました。
つまりそれは、こう主張しても、己の価値観の”囲い”のなかでひとを見てしまうのがひとなのだ、の証明ではないでしょうか。

でも私のことで、仕事に関わっている方々や尊敬している方々にまでご迷惑をかけるようなことがあったらとても悲しいのです。

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